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どこが大事かを考えすぎない

 勉強するとき, 教科書を読みながら「どこが大事か」を考えるものです。しかしそれには危険があります。「大事なところ」を探すことは「大事でないところ」を探すことでもあります。そして「大事でないところ」を読み飛ばしてしまうのです。それが「大事なこと」の理解を妨げるのです。  「大事なこと」には, その大事さの根拠や由来や他のこととの関連性などがあります。それらの支えがあってこそ「大事なこと」が大事でいられるのです。ところがそれらは往々にして「大事でない」と切り捨てられがちです。それでは良い学びにはならないのです。特に数学や物理学は, 理論を緻密に積み上げることで理解が進みます。理論の細部が大事なのです。「神は細部に宿る」のです。  そういう細部を読み飛ばして, 大事さの中心部分や結論的なことだけを読み取っても, それはあなたの心の深いところには届かないでしょう。鵜呑みにしてテストで吐き出すだけならなんとかなるかもしれませんが, ちゃんと考えようとすると, 理解の隙間が多いために, 疑問だらけであやふやな状態に苦しみます。そして勉強がつまらなくなってしまうのです。  「どこが大事か」を考えながら学ぶことは, 要約を学んでいるようなものです。時には要約は必要なことでもありますが, やり過ぎはよくないのです。要約は容易に読み飛ばしやつまみ食いにつながります。それで「分かる」のは, 既に十分に学力がある人だけです。その域に達しない人は, 面倒でも地道にテキストを丁寧に読んでいくべきなのです。テキストには, 読者がつまずきそうなことや誤解しそうなことは対策がはかられています。それらは小さい字で脚注のように書かれており, 一見, 大事そうには見えません。しかし, 大事なことを理解するためには, それらがやはり大事なのです。  もしも「要約を読めばわかる」ような教科書があるならば, 著者は最初からそのような要約した結果だけから構成される教科書を目指して作るでしょう。私もそうです。大学1年生にできるだけストレス無くわかってもらうために, 大事なことを選び抜いて削り抜いて教科書を作っています。それをさらに削ってしまったら, 残るものは無いと思います。  教科書を丁寧に読む時間が無い, という人もいるでしょう。そういう人には, 有名なミヒャエル・エンデの「モモ」の一節を読んで

完璧主義をやめよう

「教科書や授業は全てを理解しなきゃいけない」と考える人がいます。しかし大学の学びは奥が深く, 幅が広いので, 「全てを理解する」のは無理です。ひとつのものごとを「完璧に理解しよう」というのも無理です。理解は段階的であり, 「完璧に理解した!」と思ったことも, さらに成長して振り返ると「実は理解が浅かった」と気づいたりします。  完璧を目指して努力することは素晴らしいです。しかし, 完璧を実現することはほぼ無理です。完璧な人はいないという意味で, あなたは完璧ではないし, 完璧にはなれません。不完全な自分を許し, 受け入れる必要があります。  完璧でありたい, 完璧であらねば, という考え方は自分を追い詰めます。過剰な肉体的・精神的なストレスによって, かえって成長や成果が損なわれます。 ゼロかイチかの思考(ゼロイチ思考)をやめよう 完璧でなくてよいと言われると, 緊張の糸がプツンと切れて, 「自分が楽にできそうなことだけをつまみ食いすればよいのだな」と考えて, 最初から手を抜くことを考えたりします。自分に厳しすぎるか自分に甘すぎるかの, どちらかしかない。それでは成長しません。ちゃんとやるのが前提だけど, やれなくても自分を追い込みすぎないという加減が大事です。  「規則は守らなくてはならないが, 規則に反しなければ何をやってもよい」と考えるのもゼロイチ思考です。規則に書かれていなくても, 全体のバランスを見て, 今はこれはやめておこう, という判断も大事です(昼食で混雑する食堂で長居するのは, たとえ規則で禁じられなくても控えるべきでしょう)。  このような2つの極端な選択肢しか無い思考を「ゼロイチ思考」といいます。ゼロイチ思考はすっきりしてわかりやすいので, その気持ちよさに惹かれがちです。しかし, 現実はゼロイチでは割り切れないのです。大事なことは中間にあるのです。「中庸」というやつです。

言ってないことを読み取ってはいけない

(勉強の仕方全般に関する話題です。)  どの分野もそうだと思いますが, 特に数学・物理学関係の分野の学びでは, 論理的な読解力が大変重要です。それが無いと書かれたこと・語られていることを正確に把握できず, 誤解や拡大解釈によって学びの効率が著しく落ちます。まるで「穴の空いたバケツで水を汲む」ようなもので, 膨大な時間をかけて一生懸命勉強してもなかなか勉強できるようにならないのです。逆に言えば, 論理的な読解力を身につければ, 学びの効率は劇的に向上し, 人生が変わるかもしれません!!! 「論理的な読解力」の最初のレッスンとして, 発言を素直に受け取ること, とりわけ, 「著者が言ってないこと(話題にしていないこと)を勝手に読み取らない」 という教訓を身につけましょう。例えば「サッカーって面白いよね」という人に対して「この人には野球はつまらないんだ」というような解釈を勝手にしない, ということです。当然ながらサッカーが面白い, 野球も面白い, という人はたくさんいます。「サッカーは面白い」という発言ではサッカーだけが話題になっているのであり, 野球はとりあえず話題になっていないのです。 当たり前のようですが, 実はこれができない人は多いのです。 たとえば「2つの整数m, nのうち片方は偶数です」と言われたとき, 「じゃあもう片方は奇数なんだな」と考えてしまう人がいます。これは間違いです。もう片方は話題になっていないから何でもよいのです(ただし話の前提条件になっていた「整数」は満たす必要があります)。だからもう片方は奇数でも偶数でもよいのです。 「AならBです」と言われたときを考えましょう(A, Bは何らかの条件, たとえばAは「xは偶数」でBは「xは整数」)。これを「じゃあAでないならBでないんだな」と受け取ってしまう人がいます。これも上の教訓に反します。「AならBです」という発言は, 「Aでない場合」には言及していません。話題になっていないのです。だから「Aでない場合」については考えなくてよいのです(考えてもよいのですが, それはあくまであなたの考えであって, 著者の考えではありません)。だから「AでないならBでない」と解釈してはダメですし, 「AでないのにBなこともありますよ!」みたいな「反論」も成立しないのです。 「AならBです」と言われて, 「そうか, B

微分可能だけど導関数が不連続であるような関数はあるのか?

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(「大学1年生のための数学入門」第5章「微分」の話題です。)  微分可能な関数は直感的なイメージでは滑らかなグラフであり, その導関数はその滑らかさをグラフにしたものだから, どこかでいきなり上がったり下がったりしそうな感じはありません。だから, 微分可能な関数の導関数はどこでも連続であるような気がしますね。 でも, 実際は, 導関数が不連続になるような微分可能な関数もあるのです。その実例が杉浦光夫「解析入門I」(P89 例18)にあります。こういう関数です:  \begin{eqnarray}f(x)=\begin{cases} x^2 \sin \frac{1}{x} \quad\quad (x\neq 0)\\ 0 \quad\quad\quad\quad (x=0) \end{cases}\end{eqnarray} ちょっと変わっているのは, $x\neq0$と$x=0$で場合分けして定義されていることです。これは, $1/x$が式の中に入っているからです。「0での割り算」はNGですので, $1/x$が入った式は$x\neq0$でしか意味を持たないのです。だから$x=0$では別途定義しているわけです。 グラフはこんなかんじです↓。上下に振動するグラフですが, 原点に近づくほど小刻みになっていくかんじです。2つの放物線$y=x^2$と$y=-x^2$に挟まれた領域で振動しています。     ではこれの導関数を求めてみましょう。まず$x\neq0$では普通に「積の微分」や「合成関数の微分」の公式を使って,  \begin{eqnarray}f'(x)=2x\sin\frac{1}{x}-\cos\frac{1}{x}\end{eqnarray} となります。一方, $x=0$での微分係数(導関数の$x=0$での値)は,  \begin{eqnarray}f'(0)=\lim_{h\rightarrow 0}\frac{f(h)-f(0)}{h}=\lim_{h\rightarrow 0}h\sin\frac{1}{h}=0\end{eqnarray} となります。このように, 全ての$x$で微分係数が定まるわけです。従って, この関数$f(x)$は全ての$x$で微分可能です。 ところが!! 式(2)では, $x$を0に近づけると, 右辺第二